速報偕楽園 好文亭 (こうぶんてい) |
|||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
好文亭の名前の由来は、晋(しん)の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の異名を「好文木(こうぶんぼく)」といったことから命名されたといわれています。 |
|||||||||
|
|||||||||
下の「好文亭見取り図」の部屋名をクリックして全天球360°映像をお楽しみください。 (未設定箇所:水屋,茶室,待合,露地門)。 360°映像をドラッグすると天井などの様子も分かります。映像は入れ替えることがあります。 |
|||||||||
下の写真をクリックすると拡大写真が表示されます。 |
|||||||||
|
好文亭は水戸藩第九代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の別墅(べっしょ)であるが、そこは己一人が楽しむ所ではなく、民と
偕(とも)に楽しむ所であった。
|
||||||||
奥御殿(おくごてん) 奥御殿は十室からなっています。奥御殿は昭和44年9月2日の落雷により焼失し、再び昭和47年に復興された。 |
|||||||||
|
菊の間と桃の間は、いずれも総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された。
|
||||||||
|
|||||||||
|
つつじの間、桜の間、萩の間は、藩主婦人来亭の際など、お付きの婦人た
ちの詰め所、休憩室として使用された。
|
||||||||
|
|||||||||
|
|||||||||
紅葉の間 ← クリックで360°に画像へ |
松の間は奥対面所で、紅葉の間は、次の間である。 藩主婦人や、高貴の方々の座所で、紅葉の間との間には入側をもって隔ててある。 |
||||||||
松の間 ← クリックで360°に画像へ |
|||||||||
竹の間 ← クリックで360°に画像へ |
竹の間、梅の間、清の間(せいのま)の三室の一棟は、明治二年に水戸市柵町にあった中御殿の一部材料を運び奥殿に増築したもの。
斉昭公夫人の貞芳院が明治2年から6年まで「梅の間」を中心に住まわれた。(その後は東京に移られた。) |
||||||||
梅の間 ← クリックで360°に画像へ |
|||||||||
清の間 ← クリックで360°に画像へ |
|||||||||
太鼓廊下 ← クリックで360°に画像へ |
奥御殿とを結ぶ連絡路。 好文亭の通路はとても狭く作られている。 これは武器を持った敵が乱入した際、その動きを制限するねらいがあったとされている。 |
||||||||
華燈口 ← クリックで360°に画像へ |
華燈口 奥殿から茶室へ通る2畳の小室。中に小坊主が控えていて、奥と茶の席との連絡にあたった。上方がアーチ状で狭く、下方は広く開いた形をしてる。室内の杉戸には古今集の和歌が華麗な色紙・短冊に書かれてありましたが火災により損傷した。原画は藩医小松玄甫、復元は東京芸術大学の先生があたった。
|
||||||||
|
|||||||||
御座の間 ← クリックで360°に画像へ |
藩主が来亭して、この室にいるときは、何かと用務もなさっていた。部屋には床の間を設けず、竹の柱だけを下げ、極めて簡素に作られており、竹のアジロ網の中に紗を張った網代戸をとおして左右の間が見えるようにしてある。 東塗縁で敬老会等がある時は、障子を開けて、直接招いた老人たちと閲見したり、また、西塗縁で集会の人々や、文墨の人々を入側に呼び入れて語ることも多かったようである。軒下に敷き詰められた黒石は和歌山県の那智石、ガマの背に似た斑紋があるのでガマ石と呼ばれる大きな履脱石は、2.4m×1.6mあり谷田の羅漢寺にあったものをここに移設したとされている。石の写真
|
||||||||
東西3間、南北6間の塗縁の大広間。北側と西側各2枚の杉戸には作詞作歌に便するため、四声類別表-平仄(ひょうそく)が書かれている。揮毫は名越敏樹、松延道園の両氏、復元は諸橋轍次氏とされている。天井は杉皮網代張り、ここで文墨雅人がよく集まり詩歌を作り書画を揮毫した。 障子の白色と、総板縁の黒色と、庭園の緑が見事な調和をみせる。 |
|||||||||
90度方向転換する不思議な雨戸 |
雨戸が部屋の角で90度に方向を変えます。 訪問の際は、仕組みを観察してみるのも面白いですよ。 |
||||||||
対古軒(たいこけん) 西塗縁の北側に接している四畳半の一室。
この室から茶室に至るナゲシに、烈公の歌が彫れらた円形の板額がかけられている。 「世をすてて 山に入る人
この部屋の取っ手は、戸を開けなくても中の様子が分かるように特殊な構造になっている。
|
|||||||||
茶室 何陋庵 (かろうあん) |
茶室「何陋庵(かろうあん)」は、亭の西北に位置しています。 この庵の設計には、石州流原森一郎氏と※宗彳扁流小山田軍平氏が参加したとされています。(※一文字で、彳+扁) |
||||||||
|
|||||||||
楽寿楼 ← クリックで360°に画像へ (らくじゅろう) |
床の間左側には、烈公が陣太鼓を作ったときの余材を利用して作った漆塗り丸窓の富士見窓を有する。その陣太鼓は常磐神社境内の義烈館に陳列されている。 |
||||||||
楽寿楼 3連障子 |
楽寿楼東側の障子は、3連障子である。
|
||||||||
|
つつじの頃、楽寿楼からの展望 木々の緑に霧島つつじの巨木がひときわ映える。
|
||||||||
待合(まちあい) 間口9尺(2.7m)、奥行6尺(1.8m)、屋根はチガヤ葺き(チガヤブキ)。総体くぬぎの丸太作りで、三方は壁、内側に腰掛けがある。壁に四角と丸の額が計三つ掲げられている。
「巧詐不如拙誠(こうさせっせいにしかず)」 |
|||||||||
|
TOPに戻る おもしろ情報:好文亭と田鶴鳴橋 このページのTOPに戻る