七面焼とは

 

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 水戸藩の9代藩主であった徳川斉昭が天保4年(1833年)に藩民のことなどを思い、水戸の城東・下町の瓦屋(かわらや)、別名瓦谷(べつめいかわらたに)に窯を作った。その後、天保9年(1838年)に神崎七面堂の下、現在の偕楽園のとなりにある常磐神社入口階段中ごろの南斜面に、瓦谷の製陶所も移し、連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)を備えた七面製陶所を設置して、ここで焼物が作られた。
 七面製陶所では、土瓶(どびん)、徳利(とっくり)、行平鍋(ゆきひらなべ)や鉢(はち)など、藩民のための物が推定であるが明治4年(1871年)まで作られていた。 一方、陶芸品と思われるような一部の陶片から、「偕楽園」や「偕楽」という押印が確認されている。これらの押印が見られる花瓶などがアメリカにあるボストン美術館に収蔵されています。これらは七面製陶所製との見解が示されており、他に、国内で個人が所蔵している花瓶が実在しています。

七面焼の特徴
 水戸藩の財政や藩民の利益のことを考え、藩内から取れる粘土等が使われました。
焼物には、粘土のみで作る陶器、石を細かく砕いて作る磁器、粘土と石を細かく砕いたものを混ぜ合わせたもので作る半磁器があります。七面製陶所では、主に半磁器が多く作られていたようです。

七面会資料より抜粋) 

 

常磐神社大鳥居の横に立つ「七面陶器製造所跡」の石碑

七面製陶所確認調査現地説明会(H17年度)

七面製陶所確認調査現地説明会(H17年度)

七面製陶所確認調査現地説明会(H17年度)

七面製陶所確認調査現地説明会
( H17年度)

平成17年の発掘調査では土瓶・急須・徳利・湯飲み椀・皿・鉢・
土鍋等、日常使われる器物が多数出土した

「偕楽園」銘花生(かいらくえんめいはないけ)
素焼花生の破片と見られている
篆書体「偕楽園」の文字が確認できる

鉄絵梅樹紋土瓶
焼締陶器(やきしめとうき)土瓶の破片


七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

染付草花紋碗(そめつけそうかもんわん)の破片(磁器)

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面陶器製造所跡からの出土品

七面製陶所の設置から閉鎖まで 
(水戸市教育委員会 七面製陶所平成17年度確認調査現地説明会資料より)

年 代
出  来  事
文政12年(1829) 徳川斉昭(列公)が30歳で第9代水戸藩主となる。
天保元年(1830) 藩内の陶土の調査を実施。常陸太田在の町田と下野の小砂村(こいさごむら)で陶土を発見。
天保2年(1831) 伊藤友寿を京都へ派遣し、陶器製法を研究させる。                              
天保4年(1833) 陶土の産出地である町田と小砂に窯を築きたかったが、藩内事情から実現できなかったため、第1回目の就封(帰国)の時、お手もと金で水戸の城東、下町の瓦屋(瓦谷、かわらや)に陶器製造所を開設。
天保5年(1834) 陶器焼成が軌道に乗りはじめ、翌6年春には磁器の焼成に成功。
天保9年(1838) 神崎七面堂(かみさきしちめんどう)の下に七面製陶所を設置し、瓦屋の製陶所もここへ合併する。(「好文亭四季模様之図」によると、窯場は千波湖に面した崖下に設置され、「びいどろざいく御家」、「白やきせとや」、「御役人」、「諸事御せ戸やき場」などの施設があり、3基の連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)も描かれている。)
天保11年(1840) 製陶所を視察。
天保12年(1841) 肥前唐津(ひぜんからつ)の陶工傳五郎(とうこう でんごろう)を雇い、製陶所の拡張準備を行うが、藩内事情から陶業拡大政策は進展しなかった。(斉昭は製陶所を七面、町田、小砂の3箇所に設け、小砂のものは水戸の城下や江戸、あるいは那珂川の上流筋など運送の便の良い方へ出荷し、町田のものは太田で売りさばけば、かなりの利益が見込めると考えていたようである。)
天保13年(1842) 偕楽園が開園される。
弘化元年(1844) 斉昭が幕府から致仕謹慎を命じられ、水戸藩の天保改革は挫折する。
明治4年(1871) 廃藩置県が行われ、幕府の資金的援助を失った七面製陶所も閉鎖された可能性が高いと考えられるが、正確な閉鎖年代については不詳。

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